10月某日
「R・E・S・P・E・C・T リスペクト」(ブレイディみかこ 筑摩書房 2023年8月)を読む。みずからをアナキストと宣言しているブレイディの初?の小説。たぶん初めてだと思う。やはりアナキストを自認している政治学者の栗原康が推薦文を寄せている。本の冒頭に「この物語は、2013年にロンドン東部で始動したFOCUS E15運動と、同運動が2014年に行ったカーペンターズ公営住宅地の空き家占拠・解放運動に着想を得たフィクションであり、小説であります。…以下略」という文章が掲げられている。シングルマザーでホステル(若年層ホームレスの居住施設)からの退去を迫られたジェイドとその仲間たちが、空き家の公営住宅を占拠し、自らの要求を貫徹していくというストーリー。この小説を読んでいた私は50年以上前の私の全共闘体験を思い出した。1969年の4月、私たち無党派と反革マル党派の連合部隊はヘルメットと樫の棒で武装して革マルの支配する早稲田の本部構内に進出、革マルの武装部隊を粉砕し、本部封鎖に成功する。封鎖は9月に機動隊により解除される。私たちは機動隊に対抗して第2学館に立て籠ったが攻防数時間で武装解除、逮捕される。拘置所から釈放された11月には授業が再開されていた。
私たちは校舎でジェイドたちは公営住宅という違いはあるが、占拠という戦術は一緒。占拠された空間が一種の祝祭空間に変化してゆくのも同じだ。ジェイドたちは地域の住民たちと交流を深めてゆくが、私たちには住民との交流はほぼなかった。当時、日共民青は当初から全共闘派と対立していたし、革マル派は1月の東大安田講堂の戦いに参加しなかったことで全共闘派と対立を深めていった。革マル派は数年後、中核派のシンパと見られた文学部の学生をリンチ、殺害に至る。この辺の陰惨さも日本の新左翼運動に見られてジェイドたちの運動には見られない特徴だ。政経学部の全共闘はノンセクトが中心で明るかったけどね。私は当時2年生で1学年上の浅井さんや後藤さんと仲良くしてもらった記憶がある。拘置所から出てきたら彼らはもう学園から消えていた。その後、会うことはなかった。地域に根差したジェイドたちの運動は永続する運動のように見える。私は全共闘の無党派の運動は基本はアナキズムではなかったか、と思っている。べ平連の運動もアナキズムに近似しているように思える。全共闘もべ平連も遠くなってしまった。しかし日本においても貧富の格差は拡大しているし、ロシアのウクライナ侵攻も続いている。現代にも矛盾は存在し拡大しているのだ。
10月某日
「かたばみ」(木内昇 角川書店 2023年8月)を読む。北海道新聞、中日新聞など地方紙に連載されたものがもとになっている。ちなみに「かたばみ」とはカタバミ科の多年草。クローバーのような葉を持ち、非常に繫殖力が強く「家が絶えない」に通じることから、江戸時代にはよく家紋に用いられた。花言葉は「母の優しさ」「輝く心」など(本書のカバーに記述)。「家が絶えない」「母の優しさ」が本書のテーマと言える。私はNHKの「ファミリーヒストリー」という番組が好きでよく見るが、本書も日本女子体育専門学校で槍投げ選手として活躍した悌子のファミリーヒストリーである。肩を壊して槍投げ選手を引退した悌子は小学校の代用教員に。悌子には早稲田大学で投手として活躍した幼馴染がいる。当然、結婚すると思っていたが彼は別の人と結婚、すぐに出征して戦死してしまう。嫁は赤ちゃんを身ごもっていた。出産後、嫁は再婚するが悌子に赤ちゃん清太の養育を依頼する。悌子は定職のない権蔵と結婚し清太を実子として育てる。終戦後、清太はすくすくと育ち中学校ではエースとして活躍する。権蔵もドラマ作家として売れ出すが…。惹句に曰く「2023年を代表する傑作の誕生」。かどうかは分からないが、私は大変面白く読ませてもらった。清太は昭和33(1958)年に中学2年生(13、4歳)だから昭和20年か19年生まれだね。作者の木内昇は1967年生まれだから清太は親の世代になるか。
10月某日
「はーばーらいと」(吉本ばなな 晶文社 2023年6月)を読む。つばさ(男子)とひばり(女子)は小学生からの仲良し。つばさのお父さんが投身自殺希望者に巻き込まれて窓から転落死したり、ひばりの両親が経営していたバーを閉鎖してカルト教団に入信したり、ありがちな日常が描かれる(日常生活ではありがちとは言えないが、小説世界ではありがちと私は考える。カルト教団とは言ってもオウム真理教ほど過激な集団ではなく、教祖は「みかん様」と言って「道で会ったら好きになってしまいそうな、姿の良いおじいさんだった」。つばさはひばりを教団施設から脱会するが、暴力的に阻止されることもなく書類上の手続きだけだった。「あとがき」で吉本ばななは「誰かが自分らしく好きなように生きる(ひばりちゃんの両親も、つばさくんのお父さんも)ことが、巻き込まれた近しい人を傷つけることがあるということを、人の心の動きとして、書いてみたかった」と述べている。カルト教団に入信することが「自分らしく好きなように生きる」ことなのか、私はやや疑問。しかし自分のことを振り返れば、私が学生時代、全共闘運動に参加したのも「自分らしく好きなように生きる」ためだったと思う。全共闘運動はさておき、党派への参加もカルト教団への入信も大差がないように今では思う。
ジャニーズの性加害問題について考えてみると、ジャニーさんは「自分らしく好きなように」性加害を行ってきただろう。そして「巻き込まれた近しい人を傷つけ」てしまったのだ。ジャニーズ事務所とカルト教団を同列に扱ってはいけないが、私はそれを集団の怖さと表現したい。戦前の日本社会の天皇制ファシズム、ドイツのナチズム、ソ連のスターリン主義にも同じようなものを感じる。スターリン主義ロシアはプーチンや北朝鮮の金王朝に受け継がれているのではないか。私は吉本隆明(ばななの父)の共同幻想論を思い浮かべる。ついでに言うとスターリン主義に対抗し得るのは反スターリン主義ではなく、吉本の唱えた自立であろう。反スタではスターリン主義を克服できない、と私は見る。
10月某日
「被害者家族と加害者家族 死刑をめぐる対話」(原田正治 松本麗華 岩波ブックレット
2023年8月)を読む。原田は1983年に「半田保険金殺人事件」で末弟を殺害される。犯人は死刑を宣告される。原田は犯人とも面会を続け、死刑の停止を訴えるが、犯人は処刑される。松本麗華(りか)は、地下鉄サリン事件をはじめとする一連の事件で首謀者とされ、死刑判決ののち処刑された麻原彰晃こと松本智津夫の三女。被害者家族(原田)と加害者家族(松本)が対話する。それも和気あいあいとした雰囲気で。読んでいても原田の飄々とした雰囲気が伝わってくる。この人は殺人犯だから悪人、悪人の殺人犯は処刑して当然、という観念、先入観から遠い存在のような気がする。そんな原田に対して松本も素直に対話に応じる。私としては死刑が確定した後も袴田事件のように冤罪が強く疑われる事件もあり、死刑廃止の立場、最高刑は終身刑でいいように思う。それと松本は松本智津夫の娘ということで大学入学や就職を拒否された経験があるという。これは差別でしょ!