モリちゃんの酒中日記 4月その2

4月某日
北海道で小中高と一緒だった山本君、現在は春日部で暮らしている。時々会ってご飯を食べているが、本日は柏でジンギスカンを食べることに。16時に柏駅の中央改札で待ち合わせ。柏神社近くの「大衆ジンギスカン酒場ラムちゃん」へ入る。月曜日とあってまだ客はいない。ウイスキーのソーダ割呑み放題を頼む。山本君も私も昭和23年生まれ、ということは今年76歳。40分ほどでお腹がいっぱいになってしまった。山本君とは小学校5~6年が同じクラスだった。家も近くて良く一緒に遊んだ。当時、私たちは室蘭市の奥の水元町というところに住んでいた。同じクラスにやはり水元町の正輝君たちと水元グループをつくり遊んだものだ。勉強した記憶はほとんどない。水元町は自然が豊かで遊ぶには困らなかった。

4月某日
大谷さんと御徒町駅で待ち合わせ。その前に上野で見つけた美味しいパン屋さん「B2D」でパンを買おうと思ったら「売り切れ」で早じまいしていた。御徒町に着くと「広場にいます」とショートメールが。大谷さんを見つけて「どこに行こうか」。中華などいろいろ考えたが「落ち着ける」ということで「吉池食堂」で一致。取り敢えずビールから私は日本酒、大谷さんはハイボール。最後は私もハイボールにして終了。

4月某日
「日本思想史と現在」(渡辺浩 筑摩選書 2024年1月)を読む。渡辺浩は1946年生まれ。東大法学部卒。東大法学部教授、法大法学部教授を歴任。年代としては東大闘争を経験している世代だ。当時、東大全共闘は全学封鎖貫徹を目指しており法学部も例外ではなかった。丸山眞男の研究室も封鎖された。封鎖解除後、荒れ果てた研究室を見た丸山は「ナチスもこんなひどいことはしなかった」と言ったという(伝説がある)。これに対して吉本隆明が、「東大教授という特権意識に裏付けられた発言」と反論した(うろ覚えなので要確認)。それはさておき本書は、渡辺が学会誌や東大出版会のPR誌などに発表した書評や比較的短い文章をまとめたもの。東大法学部の最優秀の学生は卒業後、助手に採用され講師、助教授、教授と昇進してゆく(つまり大学院にいかない)。という噂を聞いたことがあるが、渡辺もその口であるようだ。本書を通読した感じはリベラルちょい左派という感じ。まぁ日本社会全体が保守化、右傾化している現在、ちょい左派といえどもリベラル左派は貴重な存在。がんばってほしい。本書で初めて知ったこと。少なくとも宋代以降の中国には、地方に君臨する領主や貴族などは基本的にいない、ということ。渡辺は中国学の大家、吉川幸次郎の文章を引用する。一部を抜粋すると「中国では家柄によって特権的な身分を世襲する制度は、千年も前の北宋の時代にすでに消滅しまっているからである」(「中国における教養人の地位」(1960年))。

4月某日
「江戸東京の明治維新」(横山百合子 岩波新書 2018年8月)を読む。意外と言っては何ですが面白かった。私の考える歴史は主として政治史であり、軍事史であった。本書はむしろ庶民の歴史であり、明治維新の当時の風俗の歴史を描く。「第3章 町中に生きる」では、落語の大家さんに当たる「家守」たちの明治維新が活写される。また「第4章 遊郭の明治維新」では、幕末から明治維新に至る新吉原遊郭と遊女の実態が明らかにされる。周知のように江戸時代において売春は新吉原など場所を限定して幕府に公認されていた。遊女「かしく」との結婚を望み、金策を含め努力する都市下層の男性が紹介されているが、彼らは「遊郭に通う武士や大店の手代と同様に、新吉原での遊蕩について疑問を持っていない」。「かしく自身も、売春への強い嫌悪と忌避の感情は抱いているが、自らを汚れた存在と感じたり、売春を他人に語れない恥ずべき経験として意識したりすることはなかった」。明治維新後、解放令により売春が娼婦の「真意」に基づく場合は合法とされた。しかし、「維新後の近代には、それまで見られた遊女への共感や同情、ある種のあこがれは消え、蔑視が前面に現れてくる」と著者は述べる。近代化の負の側面かもしれない。娼婦の解放令によっても売春はなくならなかった。それは戦後、売春防止法によっても売春が消滅しなかったことと同様であろう。

4月某日
「鬼の筆-戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折」(春日太一 文藝春秋 2023年11月)を読む。著者の春日太一は週刊文春に「春日太一の木曜邦画劇場」を連載している人で、映画史、時代劇の研究者となっている。1977年生まれ、日大大学院博士後期課程修了(芸術学博士)。以前「天才 勝新太郎」(文春文庫)を読んだことがある。500ページ近い大著で、映画に詳しくない私としては、読了するのに多少の苦労はあったけれど、面白かった。橋本忍の脚本家としてのデビューは1950(昭和25)年8月に公開された「羅生門」。「羅生門」はヴェネチア国際映画祭でグランプリを受賞する。橋本忍は1918年、兵庫県の「山間の田舎町」に生まれる。「羅生門」のシナリオ執筆の頃は、プロのライターではなくサラリーマンとの兼業であったという。橋本が職業脚本家になったのは51年の春で「羅生門」が公開されてから半年はサラリーマンだった。50年代から60年代は日本映画の絶頂期で、橋本の脚本で公開された日本映画は、54年に「さらばラバウル」「勲章」「七人の侍」など9作品にのぼる。テレビの登場によって日本映画が斜陽産業となってからも橋本は脚本家として旺盛な創作意欲を示す。松本清張原作の「黒い画集 あるサラリーマンの証言」「ゼロの焦点」「「霧の旗」「影の車」、それに話題となった「私は貝になりたい」「切腹」「どですかでん」「人間革命」「八墓村」などである。橋本はサラリーマン時代、岡山に疎開していた伊丹万作からシナリオ執筆の手ほどきを受けたという。人生における出会いの面白さと大切さを感じさせる橋本の一生であると思う。

4月某日
社会保険出版社の高本社長、年友企画の石津さんと17時30分に出版社の入っている千代田ビルの1階ロビーで待ち合わせ。17時過ぎにロビーに行くと石津さんがすでに来ていたのでしばし雑談。高本社長がエレベータで降りてきて合流、本日の会場は千代田ビルから歩いて数分のスペインレストラン「オーレオーレ」。オーレとはスペイン語でフラメンコや闘牛の際に発せられる掛け声で「オーレオーレ」は日本語で言うなら「見事!見事!」か。料理も美味しかったがおしゃべりも楽しかった。17時30分からスタートして終わったのは22時過ぎ。ビールにワイン、最後は高本社長からいただいた鹿児島の地ウイスキー「KANOSUKE」を封切り。アルコール度数55度の絶品でした。高本社長にすっかりご馳走になる。