社長の酒中日記 5月その3

5月某日
図書館で借りた「ヌエのいた家」(文芸春秋 小谷野敦 15年5月)を読む。以前母を看取った「母子寮前」を読んで母恋小説として面白いと思ったのだが、今度は父を看取る話である。小谷野は高校生の頃から徐々に父との折り合いが悪くなる。母が重篤になった時の父の仕打ちにも許せないと感じる。で、結局父はだんだんと衰えていき、最期は施設で亡くなる。肉親を愛せないってつらい。小谷野の場合、「権力を持つ」父との葛藤とはちょいと違うような気がする。むしろ蔑むという感覚が近いのかもしれない。それが私には理解できない。

5月某日
前にもこの欄に書いたことがあると思うけれど、荻島国男さんという厚生官僚がいた。今から20年以上前にガンで亡くなったのだが、大変すごい人であった。どういうふうにすごいかというと一言でいうと「政策の要」を実によく理解し、今、厚生省がやらなければならないこと、自分がやらなければならないことを戦略的に考えた人であったと思う。その奥さんの道子さんが入院していたのだが、花小金井の有料老人ホームに転居したというので会いに行ってきた。お会いしたらとても元気そうでリハビリと食事療法の効果か、健康的に痩せて見えた。私も脳出血の後遺症があるのでリハビリの話で盛り上がった。

5月某日
「介護職の看取り及びグリーフケアのあり方」について一般財団法人医療経済研究・社会保険福祉協会から委託を受け、一般社団法人のセルフ・ケア・ネットワーク(SCN)が調査し、その結果がまとまった。一般紙には厚労省の記者クラブで専門紙には民介協の事務所で記者発表した。調査に協力したので高本代表理事、市川理事、社福協の本田常務、内田次長とともに私も同席した。日本経済新聞社、朝日新聞社などが取り上げてくれた。

5月某日
神楽坂の「ランタン」というイタリアンの店へ行く。オリンピック・パラリンピック委員会に厚労省から出向している石川さんが慶応大学病院の眼球銀行のエグゼクティブ・ディレクターをやっている篠崎さんを紹介してくれるという。SCNの高本代表理事と市川理事が同席。篠崎さんは恐ろしいほどに見分が広い人で実に勉強になった。ワインも料理もおいしかった。

5月某日
名古屋出張。快晴。新幹線から富士山がくっきり見える。名古屋では「わが家ネットワーク」の児玉代表理事と「住宅改修」と「福祉用具」パンフレットの打ち合わせ。名古屋名物の「豆福」を土産に頂く。児玉さんは地震による「家具の転倒防止」に取り組んでおり、熊本地震以降テレビ取材が相次いでいるそうだ。帰りの新幹線でも美しい富士山を見ることができた。早めに帰ったのはいいが、我孫子駅前の「愛花」でじっくり吞んでしまった。

5月某日
「介護職の看取り及びグリーフケアのあり方」について毎日新聞の医療福祉部の有田浩子記者から取材を受ける。高本代表理事、市川理事に同席。最近のマスコミの記者は女性が多い。そのうえ優秀。

5月某日
米原万理というエッセイストがいた。ロシア語の同時通訳者だったがのちにエッセイスト、小説家としても世に知られる存在となった。没後10年ということから佐藤優編で文春文庫から「偉くない『私』が一番自由」というアンソロジーが出版されたので早速購入。このアンソロジーの目玉は彼女の東京外語大学の卒業論文「ニコライ・アレクセーヴィッチ・ネクラーソフの生涯‐作品と時代背景」なのだが、ネクラーソフという詩人の生涯には興味を持てないのでパス。エッセーはそれぞれ彼女流のひねりの効いたものだったが、私には佐藤優の追悼エッセー「米原万理さんの上からの介入」が面白かった。外務官僚だった佐藤は2002年5月東京地検特捜部に逮捕された。逮捕される前日、米原から佐藤に身を案じる電話が入る。「外務省にこれ以上いると危ない」そして食事に誘われる。二人の信頼関係と交情の一端が明かされるのだが、二人のマルクス主義理解の違いについての佐藤の言説が興味深い。佐藤にとっては労農派マルクス主義が基本(佐藤は浦和高校時代、社会主義協会の資本論の勉強会に参加していたがそこで宇野理論を学ぶ)、米原は日本共産党の正統的な講座派が施行の鋳型になっている〈米原の父は共産党幹部の米原昶で米原も党員だった可能性がある〉。ふーん、なるほどね。思想を深く学ぶとその鋳型にとらわれるということはあるかもしれない。思想を深く学んだことない私などむしろ自由なのかも。

5月某日
図書館から借りた「日曜日たち」(吉田修一 03年8月 講談社)を読む。「日曜日のエレベーター」「日曜日の被害者」「日曜日の新郎たち」「日曜日の運勢」「日曜日たち」という5作の連作で、それぞれ別の主人公のそれぞれの日曜日が描かれる。実はそれぞれの連作に親から捨てられた幼い兄弟が登場する。実は本当の主人公はこの兄弟二人かもしれない。吉田は過酷な現実を描きながら、それに抵抗する庶民を描かせると抜群に読ませると私は思う。

5月某日
民介協の総会。総会後の厚労省老健局の辺見振興課長の講演の後、懇親会。振興課の井樋課長補佐にあいさつ。井樋さんは10年ほど前古都振興課長のとき振興課にいたという。そういえば思い出した。係長でさわやかな青年がいたけどその人ね。阿曽沼さんが上京した時には「声をかけますよ」と約束。懇親会の後、佐藤理事長や扇田専務など20人くらいで浅草の「むぎとろ」へ。

社長の酒中日記 5月その2

5月某日
日曜日。羽田から関空、関空からバスで和歌山駅前へ。駅前のホテルグランヴィアにチェックイン。和歌山在住の土井康晴さんに電話すると「もうフロントの前に来ているよ」。まだ4時前だけど、連れ立って駅ビルの居酒屋「城」へ。居酒屋というか食堂ですね。土井さんが「この店は朝からやっているよ」と言っていた。でもクジラの竜田揚げなど路のも地のものはおいしかった。生ビール2杯と地酒3合ですっかり酔っぱらってしまった。土井さんと別れホテルへ帰って寝る。10時頃目を覚ましてホテル近くを散策、「与太郎」という居酒屋へ入り「砂ズリ」2本と「土手焼き」、角のソーダ割を2杯。翌朝、土井さんが車で迎えに来てくれる。土井さんの持っている山を土井さんが仲間たちと整備、地域のために役立てたいという。地域コミュニティケアの実践である。土井さんが「今度和歌山に来るときは平日にしてね。あの店日曜日は休みだから」。あの店とは土井さんが行きつけの酒場。主人が東京の銀座でイタリアンの修行をしたというすぐれもののお店だ。

5月某日
広島でグループ経営会議。会議後、近くの割烹でご馳走になる。新幹線で新下関へ。在来線2駅で下関だ。ホテルへチェックイン後、駅前の居酒屋「三枡」へ。ここは前にも入ったことがあるが、入り口が路地風で風情がある。刺身と地酒を頼み、若主人と思しき板さんと話す。

5月某日
午前中、下関医療センターの山下副院長と面談。「終末期に介護職が救急車を呼ぶケースが多いのではないか」と山下先生。介護職に対する終末期ケアの研修が必要という。山下先生と別れ下関市議の田辺さんに電話。下関駅まで迎えに来てもらう。田辺さんは障がい者雇用に熱心に取り組んでいる。さらに食品の残菜を肥料として活用する工場を立ち上げたいという。田辺さんにランチをご馳走になる。午後、田辺さん下関市役所まで送ってもらい、浜岡市議に会う。浜岡さんは元郵便局員。郵便局員から豊浦町長、豊浦町と下関市の合併後、下関市議という経歴。住民にとって何が大切かを常に考えながら市政に向き合っているという。浜岡さんに車で新下関まで送ってもらい徳山へ。
徳山へ向かう新幹線のなかで「グローバリズムという病」(平川克美 14年8月 東洋経済新報社>を読む。平川は「商品もその一形態である貨幣も過剰流動性というべき性格をもって世に現れてきた」のであり、よって国境を挟んだ商品交換は連綿と続けられ拡大し、この拡大への自律的な運動をグローバリゼーションと呼ぶという。平川は運動としてグローバリゼーションは否定しないがイデオロギーとしてのグローバリズムは徹底的に批判する。

5月某日
4時頃ホテルにチェックイン。今晩の予定はないので徳山市街へ。すし屋で日本酒を少々。ホテルへ帰る途中、ブラックニッカのポケット瓶をコンビニで買ってホテルで部屋吞み。翌朝、山口県議の戸倉さんにホテルまで迎えに来てもらう。戸倉さんの事務所で県議になった経緯などを聞く。戸倉さんは元々は3人の子育てをしながら夫の土地家屋調査士の仕事を手伝う「普通の主婦」だったが、旧徳山市で町づくりの市民運動に関わり、それが縁で民主党の参院選の候補者に担がれた。結果はあえなく落選で、次の衆院選でも安倍晋三候補の対抗馬として出馬したがこれも敢闘虚しく落選。県議選に周南市から出たがこちらはめでたく当選、今は2期目。普通のおばさんの目線で「私、これはおかしいと思うの」と言うのがとても新鮮だ。徳山の駅まで送ってもらって3泊4日の出張も帰るだけ。疲労が年齢を感じさせる。で、帰りはグリーン車を使わせてもらう。
帰りの「のぞみ」の車中で乃南アサの「しゃぼん玉」(新潮文庫 単行本は03年に朝日新聞社から刊行)を読む。主人公の翔人は浪人して4流大学に入るが、授業になじめず学業放棄、かといって仕事に精を出すわけでもなく窃盗やけちな強盗を繰り返す放浪の旅を続ける。そんな翔人が辿りついたのが宮崎県の山奥の平家の落人伝説の村だった。そこで出会った老婆や村人との触れ合いが翔人を変えて行く。まぁ単純と言えば単純なストーリーなんだけどラストで泣いてしまいました。
19時半から丸の内の三菱UFJ信託銀行地下の「ヴァン・ドゥ・ヴィ」で飲み会。時間前に行って待っていると、内閣府の伊藤明子さんが来る。少し遅れてオリンピック・パラリンピックの事務局に出向中の石川直子さんが同期で環境省に出向中のドクターを伴って現れる。ついで京大理事の阿曽沼慎司さん、そして厚労省を定年退職した藤木則夫さんが来る。だいぶ遅れて国立病院機構の古都副理事長。ワインで心地よく酔ってお開き。

5月某日
環境協会の林さんと我孫子駅前の「七輪」で待ち合わせ。林さんは元年住協にお勤め。だから私とは古い付き合い。なぜか気が合って我孫子や林さんの住んでいる新松戸で年に何回か吞む。林さんと別れて行きつけの「愛花」が定休日なので駅前のバーVingtNefuへ。「愛花」の常連の荒岡さんがいたので隣で吞む。

5月某日
HCMの大橋社長、ケアマネジャーの高岡さん、当社の迫田と池袋の「鳥定」へ。ここは大橋社長のお店で昭和レトロ感が色濃く漂う店だ。店のしつらえだけでなくバックに流れている音楽も昭和の歌謡曲やグループサウンド。しかもつまみも安くて旨い。ビール、日本酒、酎ハイなどを堪能して帰る。

5月某日
我孫子駅の北口に「旨小屋」(うまごや)という西洋料理のレストランがある。飲み友達の本郷さんの飲み友達の寺岡さんという人の息子さんがオーナー、ということで私も何回か行ったことがある。本郷さんから近日中に閉店するというメールが来たので寺岡さん、本郷さんと誘い合って行くことに。白ワインを頂いて我孫子駅南口の「コ・ビアン」へ。

社長の酒中日記 5月その1

5月某日
図書館で借りた「エンゲルス‐マルクスに将軍と呼ばれた男」(筑摩書房 16年3月 トリスラム・ハント 東郷えりか訳)を読む。四六判で本文だけで500ページ近い大著だが、実に面白かった。エンゲルスの印象ってマルクスに比べると私の場合は極端に低い。私の学生時代(今から45年くらい前)は初期マルクスの疎外論が「経済学哲学手稿」をはじめとしてもてはやされていて、エンゲルスの影は薄かったように思う。でもこの本を読んでエンゲルスの魅力的な人柄に触れることができたし、マルクス主義の正統を継いだとされるロシアマルクス主義が、マルクスやエンゲルスの考え方を歪曲したものに過ぎなかったことがよくわかった。
エンゲルスは1820年ドイツ、ラインライトの紡績業を家業とする裕福な家に生まれた。19歳から新聞に投稿を始め、当時の支配的な思想に対する批判的な評論を連載、ヘーゲル哲学に出会う。こうしたことはエンゲルスの生涯にとって、またマルクス主義の歴史にとって大事なことには違いないのだが、本書ではより人間的なエンゲルスの実像が描かれる。例えば1843年にエンゲルスとマルクスはパリに滞在し「共産主義者宣言」を執筆するのだが、エンゲルスは20代半ばにして名うての女たらしとなり数多くの愛人を持つようになる。1848年のフランス2月革命は3月にはドイツに波及、マルクスとエンゲルスは共産主義への移行の一環としてのブルジョア民主主義を広めるためにプロイセンに帰郷、エンゲルスは戦闘の実際の指揮も執る。また彼らの編集による「新ライン新聞」は部数を拡大させるが、しかし一連の革命は敗北に終わる。
エンゲルスは親が経営権の一部を所有していたマンチェスターのエルメン&エンゲルス商会に逃れる。エンゲルスは有能な経営者となり、彼の年収は1000ポンド、今の貨幣価値では10万ポンドに上るが、マルクスへの援助は欠かさなかった。この頃のエンゲルスはマンチェスターの繊維業界の有力者で、貴族も参加する狐狩りを趣味とし、奔放かつ贅沢な暮らしを送り、大酒のみで女性好きは変わらなかった。1869年エンゲルスは仕事から引退、ロンドンに転居する。1871年5月パリコンミューンによる史上初の「プロレタリア独裁」が実現するが5月末には政府軍に敗北する。マルクスは資本論の第1巻を書き上げた後、膨大な草稿を残して1883年3月に死去。
エンゲルスは資本論第2巻、第3巻の編集に着手する一方、国際共産主義運動の理論的な支柱となり、「反デューリング論」や「空想から科学へ」を執筆した。また限りない愛情をマルクスの遺児たちに注ぎ、十分な経済的な援助も続けた。19世紀末には社会主義勢力はイギリスだけでなくフランス、ドイツでも著しく伸長した。革命戦略もエンゲルスは若い時の直接行動や暴力的な革命志向から議会重視の方向へ転換した。ブルジョア民主主義の成熟が革命戦略を変更させたのだ。エンゲルスは1895年8月に死去、遺言により遺産はマルクスの遺児たちやその子供たちにも残された。
エピローグで著者は概略次のように言っている。「エンゲルスの人としての本質的な特徴は、マルクス・レーニン主義の鉄面皮な非人間性とは相容れないものだった。彼の目的はグローバルな階級闘争が頂点に達し、国家の衰退、人類の解放そして人間の充実と性的可能性に満ちた労働者の楽園を築くことであった。スターリン主義者がどれだけ彼を師と仰ぐと主張しても、20世紀のソ連の社会主義には決して賛成しなかったであろう」。異議なーし!

4月某日
家の近くに「NORTH LAKE CAFÉ&BOOKS」という看板を掲げる喫茶店があって、店の外で古本を売っている。文庫本なら1冊100円で3冊買うと200円である。NORTH LAKEとしたのは近くの手賀沼の北に位置するからなのだな。以前そこで買った「礼儀作法入門」(山口瞳 新潮文庫)を読むことにする。解説を読むと(山口瞳研究家という肩書で中野朗という人が書いている)、雑誌「GORO」の創刊号(74年6月13日号)から翌年7月10日号まで「礼儀作法」として連載されたとある。今から約40年前、山口瞳もまだ48歳である。私たちが日常、「どうしたものか」と悩むことどもに山口は答えてくれえる。明解にしかしあるときは結論を出さずに。たとえば女性との別れについて述べた「24 別れる」では、いろいろな別れ方を紹介した後、「諸君はどうか。諸君はどっちをとるか。(中略)いずれにしても、この話、その道の達人が苦労しているように、簡単な結論が出るわけがない」と結ぶ。こういう人を人生の達人というのでしょうか。

4月某日
図書館から借りた「静かな爆弾」(吉田修一 08年2月 中央公論新社)を読む。吉田修一の小説は割と読む。小説の舞台は現代的なのだが、作者の倫理観というか価値観が伝統的というか私には好ましい。小説のストーリーは、テレビ局に勤める「俺」は休日のある日、神宮外苑で耳の聴こえない若い女と会う。彼女、響子と「俺」はほどなく恋仲となる。「俺」はアフガニスタンのタリバンによる歴史的な遺産である石仏破壊の真相を追っており、仕事に忙殺されているが、恋愛は続き響子を両親にも紹介する。海外出張から帰国し「俺」の手掛けたアフガニスタンの1件は、ゴールデンタイムでの放映が決まる。だが突然、彼女からの連絡が途絶える。小説はハッピーエンドを予想される結末で終わる。これはコミュニケーションをテーマとした小説である。主人公の恋人がろうあ者という設定、音声によるコミュニケーションが不能な関係、タイトルの「静かな爆弾」がそれを表している。吉田修一は小説巧者だと思う。

社長の酒中日記 4月その4

4月某日
夜の予定がないので真直ぐ帰ろうかと思ったが、思い直して学生時代の友人の雨宮弁護士に電話する。雨宮君の事務所がある弁護士ビルの近所の焼き鳥屋「つくね」で吞むことにする。熊本地震や憲法解釈を巡る世間話をする。雨宮君は司法試験合格後、検事に任官、いわゆる「辞め検」なのだが、考え方は極めてリベラル、心地よく酔った。

4月某日
医療介護福祉政策フォーラムの中村秀一理事長を訪問。国際長寿センターのパンフレット、「納得できる旅立ちのために(増補改訂版)」を見せてもらう。国際長寿センターの志藤事務局長に電話したら快く「差し上げます」とのこと。SCNの高本代表といただきに伺う。志藤さんとは初対面だが非常に感じのいい人だった。国際長寿センターから富国生命ビルへ。28階の富国倶楽部で阿曽沼さんと待ち合わせ。阿曽沼さんはすでに到着していてビールを吞んでいた。我々もビールを頼んで呑んでいると現在、オリンピック・パラリンピック組織委員会に出向中の石川直子さんが来る。それから阿曽沼さんが次官のときの「付き」だった石川リコさんと伊藤ブーちゃんも顔を出して、最後に阿曽沼さんが老健局長のときの振興課長だった古都さんが来る。現在の地位や立場はばらばらだがとてもフラットな関係のいい会だった。

4月某日
「胃ろう・吸引」と「気管カニューレ吸引」の手技練習用にシミュレータが開発され、その販売に協力している。その開発者の土方さん、販売しているHCMの大橋社長と三浦さん、それに当社の迫田と私で販売会議を当社で。ホームページの更新状況の説明を土方さんから受けた後、広報のやり方や販売戦術を議論する。5時半になったので当社の向かいの鎌倉河岸ビル地下1階の「跳人」へ。ビールで乾杯後、デュワーズのソーダ割を吞む。社会保険研究所の川上社長の形態に電話したら神保町で吞んでいるというので大橋社長とタクシーで神保町へ。川上社長が社会保険出版社の人たちと吞んでいたので合流。酔ってよく覚えていないが説教をされたようだ。

4月某日
連休が始まる。久しぶりにチェ・ゲバラのTシャツを着る。ゲバラがボリビア山中でボリビア政府軍に殺害されたのは1967年10月9日だったと思う。前日の1967年10月8日は、羽田で三派全学連が当時の佐藤首相のベトナム訪問を阻止するために機動隊と激突、京大生の山崎博昭君が殺されている。私は当時浪人中でデモには参加できなかったが、大学に入学したら「学生運動をやろう」と密かに思ったものだ。山崎君もゲバラも若くして亡くなった。しかしそうであるが故に永続的な革命者として現在も生きているとも言える。成功した革命家は、毛沢東にしろスターリン、金日成にしろ「皇帝」にはなったかもしれないが革命者と呼ぶことはできない。明治維新前に暗殺された坂本龍馬は革命者であり西南戦争に敗れた西郷隆盛も革命者と呼んでいいと思う。大久保利通や伊藤博文は明治の元勲とはなったが革命者ではない。須らく革命は失敗するに限るのであり、だからこそ革命は永続的に続くのだ。
ゲバラのTシャツを着ながらそんなことを考えた。

4月某日
連休2日目の土曜日。溜まっている仕事を少しでも片付けようと出社。工事で連休中はエレベータを使えないのを思い出した。オフィスがある5階まで必死に昇る。当社の大山専務と社労士の鈴木さんが仕事をしていた。邪魔にならないように静かに仕事。今日はセルフケア・ネットワーク(SCN)の理事会・総会後の懇親会に招かれているので、日本橋蛎殻町の「バールLAZY2」に向かう。入り口でやはり招かれてきた社会保険出版社の高本社長に会う。2人でビールを吞んでいるとSCNのメンバーが到着、すっかりご馳走になる。ご機嫌で我孫子に帰り駅前の「愛花」に寄る。

4月某日
経済学者の水野和夫が朝日新聞と日本経済新聞に掲載した書評を中心にまとめた「資本主義がわかる本棚」(日経プレミアムシリーズ 16年2月)を読む。「人類はずっと長い壮大な実験を繰り返してきたが、いまだ完璧な社会システムを手に入れていない。『長い21世紀』に私たちはどうすべきだろうか。古典の中にこそ解がある」(おわりに)という著者の見解には異議はない。異議はないのだが本書で取り上げられた、ブローデル「地中海」、山本義隆「世界の見方の転換」、シュミット「政治神学」、ピケティ「21世紀の資本」など53冊は読むのにちょっとしんどそう。でも図書館にあるのなら連休中にでも読もうかなと我孫子市民図書館に行く。図書館に行ったら「エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男」(トリストラム・ハント 筑摩書房 16年3月刊)が目についた。序文の「女たらしで、シャンパン好きの資本家が」という1節を読んで借りることにする。もちろんここで言う資本家とはエンゲルスのことである。エンゲルスは「空想から科学へ」の著者「共産党宣言」のマルクスとの共著者として知られ、マルクスの著作は「マルクス・エンゲルス全集」に収められている。そしてエンゲルスはまた成功した工場主でマルクスの庇護者であった。興味は尽きない。連休中に読み切れるか。

社長の酒中日記 4月その3

4月某日
図書館で借りた「財政危機の深層-増税・年金・赤字国債を問う」(小黒一正 NHK出版新書 14年12月)を読む。著者の小黒は74年生まれ、専門は公共経済学。京大理学部卒、一橋大経済学研究科博士課程修了。大蔵省を経て法政大学経済学部准教授という経歴。小黒の主張を要約すると次のようになる。日本の財政は深刻な状況にあり、年金等の社会保障費用をはじめとした歳出の抑制と消費増税は不可避であるというもの。この主張は私の考えとも重なり「わが意を得たり!」という感じだ。年金制度の改革については「完全積立方式への移行は、過重な『二重の負担』を発生させる?」の項で「例えば、移行期の年金財源を国債発行で賄ってしまう方法もある。要するに現役世代だけが負担するのではなく、もっと遠い将来世代(場合によっては老齢世代)も含め、薄い負担で長い時間をかけて償却していけばすむ話だ」としているのは、私の「賦課方式から積立方式への移行は、超長期の国債を発行することによって、二重の負担は回避できる」という考えと一致する。小黒は「政治的に中立的で学術的に信頼性の高い公的機関が『財政の長期推計』や『世代会計』などを試算し、国民に情報提供すること」を提案する。内閣府、財務省、厚労省といった既存の行政組織とは別に設けるというところがミソだ。

4月某日
地方議員を対象にした「地方から考える社会保障フォーラム」の運営を手伝っている。毎回、厚生労働省の局長、課長クラスの協力を得ているが、今回も老健局の辺見振興課長、香取雇用均等・児童家庭局長が講演に来てくれた。香取局長は「少子高齢化が進行する中、中長期的に労働力を確保していくためには①若者、女性、高齢者などの労働市場参加の実現②少子化の流れを変えること―の2つを同時達成する必要と強調、そのためには①若年者の非正規雇用の増加②依然として厳しい女性の就業継続③子育て世代の男性の長時間労働や男性の家事・育児時間の少なさ④核家族化や地域のつながりの希薄化などを背景とした子育ての孤立化と負担感の増加―等の国民の現実と希望に大きな乖離がある要因を取り除いていく政策努力が必要」と語った。子育て、保育に関しては地方議員の関心も高く、質疑応答も盛り上がっていた。

4月某日
「感情労働としての介護労働」(吉田輝美 旬報社 14年9月)を図書館で借りて読む。感情労働(Emotional labor)の研究対象はもともと客室乗務員で、ホックシールドという人が客室乗務員には3つの労働が要求されると述べている。3つとは①通路を重い食事カートを引きながら通るような肉体労働②フライト中の緊急事態や、瞬時の判断が要求される頭脳労働③感情労働―である。ホックシールドはこの感情労働を、乗客の厄介な要求に対して嫌な顔をすることなく、普段と変わらない明るさで対応することが求められる労働だとし、「感情労働を行う人は自分の感情を誘発したり抑圧したりしながら、相手のなかに適切な精神状態を作り出すために、自分の外見を維持しなければない」し、「感情労働は賃金と引き換えに売られ、〈交換価値〉を有する」という。感情労働は保育士や看護師、介護士にも当てはまる。「なーるほどね」と深く納得する。しかしである。あらゆる人間の労働には感情労働の側面があるのではないかと思う。岡崎京子という漫画家(交通事故で長期療養中)がかつて「あらゆる仕事は売春であり、愛である」というフレーズを作品の中に残しているが、20年ほど前にその作品(確かPINKといった)を読んだ私はやはり「なーるほどね」と深く納得したものだった。もちろん客室乗務員や看護師、介護士に感情労働という側面が強くあることは認めるが。そういえば性的サービスを行う女性の制服に客室乗務員や看護師の制服と似せたものを着せる例はあるし、店名にもスチュワーデスとか病院に模したものがあるようだ(あくまでも伝聞であるが)。

4月某日
元社会保険庁長官の末次さんとはゴルフを通じて親しくなった。末次さんを通じて末次さんのゴルフ友達の高根さんとも親しくなった。たまに一緒に食事をするのだが、今回は一緒にゴルフに行ったことのある川村女子大学の吉武さんも誘うことにした。ついでと言ってはなんだけど、末次さんの大学(京大)の後輩である栄畑さん、石井さん、藤木さんも誘う。私以外はみんな元厚生省で、私は場違い感があってしかるべきと思うのだが、それが感じないんだなぁ。

4月某日
「猛スピードで母は」(長嶋有 文藝春秋社 01年1月)を読む。第126回芥川賞受賞作とあるが記憶にない。日本経済新聞の「文学の故郷」とかいうコラム(?)で作中のM市は北海道室蘭市であることが明かされ、そこは私が1歳から高校を卒業するまで暮らしたところなので、懐かしさもあって図書館から借りた。ただ私が住んでいたのは室蘭でも郊外の方といえば聞こえはいいが、むしろ山の方、対して小説の舞台となる団地は、近くに水族館があることからも海の方である。海の方には港がありデパートや映画館もあった。家から映画館に行くまで1時間くらいバスに揺られなければならなかったことを思い出した。そんなこともあって小説を読んでことさら懐かしさを感じることはなかった。もう1作「サイドカーに犬」という作品も収録されているが、こちらは母が家出した後、父のもとに通うようになった若い女性と、家に残された娘の「私」の物語。母は家に戻り女性は家を出て行くのだが、女性と娘の交流が私には心地良かった。

4月某日
我孫子駅前の東武ブックスに玄侑宗久の新刊文庫本「光の山」(新潮文庫 2016年3月)が平積みされていたので買う。聞くところによると玄侑は、福島の禅寺に生まれ慶応の中国文学科を卒業後、放浪生活(?)を経たあと、京都の天龍寺専門道場で修行した。現在は福島県の三春町の禅寺の住職である。「光の山」は3.11の東北大震災と大津波、フクシマの原発事故を背景にした「死と再生」の物語である。死は誰もが逃れることはできない。震災や津波による死と天寿を全うした死とは違うのか違わないのか?「光の山」冒頭の「あなたの影をひきずりながら」は5ページほどの掌編である。タイトルは森進一の歌う「港町ブルース」に由来する。私も震災の直後、インターネットで「港町ブルース」を検索し、「み~なと~、宮古、釜石、けぇせぇう~んぬ~ま~」と涙ぐみながら口ずさんだ覚えがある。年の離れた弟も、お婆もお母もお父も津波で流され、避難所にお爺と逃げたお姉は肺炎であっけなく死ぬ。お爺はお骨をお寺に預けようやく復旧した電車にふらりと乗ってとにかく南下し南相馬に至る。お爺はテレビで置き去りにされた牛たちのことを知り、何も考えず牛の世話がしたいと思ったのだ。死ぬつもりではなくそこに生き甲斐を見つけたのだ。まさに「死と再生」の物語だと思う。

社長の酒中日記 4月その2

4月某日
「私の1960年代」(山本義隆 金曜日 15年10月)を図書館から借りて読む。山本は東大闘争のときの東大全共闘代表。当時の東大大学院、物理の博士課程に在学していた。1941年生まれだから私より七歳上。1960年に東大に入学、決して先頭に立ったわけではないが、無党派として大学管理法反対闘争や処分撤回闘争に取り組む。山本の描く東大闘争は私から見ると少なからず「牧歌的」だ。私が入学した早稲田では敵対する党派との暴力的な対峙が日常化していたが、東大ではクラス討論の積み上げにより民主的にストライキ決議がなされている。東大の闘争は医学部での処分撤回闘争に端を発し、何よりも学生の人権を無視した大学当局に対する民主化闘争、人権闘争であったように思う。そしてその過程で高度に資本主義化した日本において産学協同の幹部候補生としての東大生とは何かという自己否定の論理まで突き進む。早稲田はそこまで考えなかったものなー、というのが私の率直な感想。まぁ早稲田というより私はだけど。「1960年代論」にとどまらず、科学技術についての、原発についての山本の見識はやはりさすがである。5,6年前に亡くなった豊浦清さんは山本の物理学科の同級生だったという。「豊浦さんを偲ぶ会」に山本も来ていて発言していた。山本も豊浦さんもやはり立派な人はどこででも立派な人なのだ。

4月某日
HCMの大橋社長と打合せ。そろそろ5時なので「呑みに行きましょうか?」と誘うと「いいですね」という返事。神田にちょっと気になる店があるので当社の石津を誘って内神田1丁目の「ど丼がぁドン」へ。残念ながら満員ということで近くの「串よし」へ。ここは焼き鳥の店だが「たまご焼き」などお惣菜風で美味しかった。「神田バー」へ流れる。

4月某日
民介協の扇田専務と「内神田うてな」へ。扇田専務が推薦の店で神田駅西口通りが外堀通りを交差する先を左に曲がって右にある。白木のカウンターとテーブルだけの店で、「神田にはあまりないタイプの店ですね」と私が言うと、「そうなんだよ、居酒屋は多いけどな」と扇田専務もうなづく。先付もお刺身も美味しかった。先付のホタルイカにはアンチョビで味付けがしてあるなど一工夫が光るし、盛り付けも美しい。包丁を握っている主人と思しき人に「どこで修業したの?」と聞くと「なだ万で」という返事。「うーん、なるほどね」。問題は西口通りからちょっと入ったところという立地。それにしても開店間もないこの店を見つけた扇田専務の眼力も「さすが!」である。

4月某日
池袋の「かば屋」でSCNの高本代表と。実は以前、HCMの大橋社長に近くの「鳥定」というレトロな店に連れて行ってもらったことがあるのだが、残念ながらまだやっていなかった。で、近くで客引きをしていたこの店に入ったわけ。九州料理の店でなかなかおいしかったがモンテローザという居酒屋のチェーン店を展開する企業の店舗だった。あとからSCNの市川理事も参加。お嬢さんの受験の話などを聞く。受験など私にとってははるか昔のこと、でも本人の気持ちが大切なのは変わらないと思う。

4月某日
結核予防会の竹下専務を訪問。「モリちゃん、今晩空いてる?」というので「最近飲みすぎで」と答えると「いーじゃないか、奢るよ」。で、6時に会社の前のビルの「跳人」で待ち合わせ。6時過ぎに「跳人」へ行くと竹下さんはビールをすでに呑んでいた。フィスメックの小出社長を誘うと「今、面接中ですが終わったら行きます」という返事。ビールからウイスキー、さらに日本酒へ。本日も深酒。

4月某日
当社の寺山君が平川克己の「路地裏の資本主義」(角川SSC選書 14年9月)を貸してくれる。平川は1950年生まれ、早稲田の理工を卒業後、内田樹と翻訳業の会社を設立、現在はリナックスカフェ代表、立教大学特任教授も務める。平川の資本主義の現状認識は正しいと思う。「人口が減少し、商品市場の拡大が望めなくなった先進国の最大の問題は、総需要の減退で」ある。それでも各国の政策担当者は経済成長戦略を掲げざるを得ない。そこで登場したのがグローバリズム。「世界をひとつの市場とすることで、株式会社はまだまだ経済成長というバックグラウンドを手にすることができる」のである。その結果起きているのは「富裕層の過剰な資産膨張であり、資本蓄積であり、中間層が破壊されて貧困層へと再び繰り込まれてしまうような貧富格差の拡大で」ある。ではどうするか。平川は言う。「わたしは、日本がこれから永続的に生き残っていくためには、無理筋の経済成長を追うのではなく、世界に先駆けて定常経済モデルを確立すべきと思っています」。うーん、正しいと思う。

4月某日
我孫子駅前の東武ブックスで小谷野敦の「反米という病 なんとなくリベラル」(飛鳥新社 16年3月)を見つけ、パラパラと立ち読みしていたら呉智英の名前が出てきたので買うことにする。呉は私が早大1年のときロシヤ語研究会に入部した当時、法学部の3年生で文学研究会からロ語研に移ってきた。大変博識な人でそのころから詩や評論を書いていたと思う。呉は第一次早大闘争の被告で、そうした意味では左翼になるのだろうが、最初の評論集のタイトルが確か「封建主義者・・・」で、思想的な立場があるとするなら、むしろ小谷野に近いのかも知れない。私は小谷野の評論集「もてない男」や小説「母子寮前」を面白く読んだ記憶があるが、この「反米という病」はどうもいただけない。私には本書における小谷野の言説がどうにも理解できないのである。かと言って、理解するために再読三読する気も起きない。ただ、本の末尾に掲載されている「補論 山本周五郎とアメリカ文学」は周五郎の小説に対する欧米の文学の影響なかんずくアメリカ映画の影響について論じたもので比較文学者としての小谷野の面目躍如というべきであろう。

社長の酒中日記 4月その1

4月某日
夕方、生活福祉研究機構の専務理事で現在、和歌山市在住の土井康晴さんから電話。「今晩、空いてる?20時30分まで新橋のルノワールにいるのだけれど」。「空いてるけれど20時30分まで呑む相手を探すよ」と答えて、「健康と良い友だち社」の市川さんに電話。ニュー新橋ビル2階の「初藤」で待つことにする。市川さんが各方面、とくに医療関係に顔が広いのは知っていたが、今日驚いたのは最近亡くなった相撲協会の北の湖理事長とも知り合いだったということ。なんでも市川さんの結婚式にも来てくれたということだが、「えっ市川さんて結婚してたんだっけ?」。そんな話をしているうちに土井さんがルノワールから到着。研究会の流れということで社会福祉法人の理事長や国立病院機構の理事、地方自治体の職員も一緒だった。彼らとも楽しく歓談し11時ころ散会。土井さんはまた呑みに行ったようだった。次の日「これから和歌山に帰る」という電話があった。

4月某日
図書館から借りた山田詠美の「学問」(新潮社 09年6月)を読む。山田詠美としては少し変わった舞台設定と登場人物と思う。ストーリーは元高校教諭、香坂仁美の死亡記事から始まる。仁美は7歳のとき静岡県美流間市に父の転勤にともない引っ越してくる。そこで知り合った同級生、心太、千穂、無量との成長物語なのだが、たんなる友情物語ではなく、セクシュアルな成長譚であるところが面白い。仁美だけでなく4人の死亡記事と無量の妻となった素子の死亡記事も紹介される。青春と背中合わせにあった死、旺盛な生それは性でもあるのだが、生のなかにも潜んでいる死を描いたともいえるのではないか?

4月某日
安倍政権の大勢は消費税の17年4月からの増税を引き延ばす方向に傾いているようだ。景気に配慮してということらしいが愚かなことだと思う。増税分は年金、医療、介護、子育ての社会保障の構造改革に充てるということになっていたはず。増税が先送りされるということは社会保障改革も先延ばしになるということである。同時に財政再建も遠のく。そうなれば国債金利も上昇し日本はギリシャ化の方向をたどる可能性が高まる。日本経済の規模はギリシャの比ではないから日本発の世界恐慌を招きかねない。増税は短期的には消費を抑制し景気を下振れさせるであろう。だがそれを恐れて増税を先送りさせれば社会保障の構造改革は進まないことを意味する。今回の増税はむしろ構造改革の好機、国民の意識改革の好機ととらえるべきと思う。経済の成長期には利益の再配分が政治の役割であったが現在は負担の再分配が求められている。それをやるのが政治家の役割と思う。

4月某日
新橋の「花半」でSMSの長久保氏と竹原さんと待ち合わせ。長久保さんたちは7時過ぎになるということなのでHCMの大橋社長を呼び出して6時半くらいから呑み始める。当社の迫田、長久保さんたちも合流。長久保さんは北海道教育大学の釧路分校の出身、大橋さんも明治生命時代に釧路に駐在していたそうで釧路の話で盛り上がる。そういえば竹原さんも札幌出身、迫田も高校時代に岩見沢に2年間いたということで、今日の4人はたまたまだが北海道繋がりということになる。

4月某日
社会保険研究所で「月刊介護保険情報」の校正をやっている旧友のナベさんが「この本、読む?」と言って沢木耕太郎の「ペーパーナイフ」(文春文庫 87年2月)を差し出す。沢木の70年代の作家論、書評をまとめたものだ。沢木は私より1年年長。団塊の世代である。若いうちからノンフィクション作家として注目され、私も「敗れざる者たち」「テロルの決算」「一瞬の夏」「檀」「流星ひとつ」など愛読したものだ。写真で見るとなかなかの好男子で同世代としてはやや「まぶしい存在」でもある。ナベさんがこの本を私に勧めたのは、私が愛読する田辺聖子の作家論が掲載されているからなのだが、「虚構という鏡 田辺聖子」というタイトルで、予想に違わず「な~るほどね!」という内容だった。たとえば田辺にとって「大事なのはストーリーではない。そうではなく、作者に極めて近似した感受性を持つ主人公の、まさにその感受性そのものなのだ。それをどれだけ生き生きと描けるかが重要な問題になる。ストーリーはその感受性によって運ばれ、流れていくにすぎない」という一文。田辺の感受性≒主人公の感受性≒読者の感受性ということなんだと思う。この不等式は田辺が幅広い読者に支持されている現在にのみ通用するものではない。源氏物語が時代を超えて支持されたように田辺の小説は「普遍」なのである。

4月某日
私が年友企画に入社したのは今から30年以上前。年友企画自体はそれより2、3年前に年金住宅福祉協会(年住協)の申し込み書類等を作成するために社会保険研究所の現社長、川上さんなどにより設立された。年住協は年金積立金を原資にサラリーマンに住宅資金を貸し付けていたがそれを所管していたのが当時の厚労省の年金局資金課。当時の課長がのちに内閣府と厚労省の次官、人事院総裁を歴任する江利川さん。その後任が江利川さんと同期の川辺さんだ。当時課長補佐だった足利さん、岩野さん、年住協の部長だった竹下さんたちと江利川さん、川辺さんを囲む会を不定期で開催している。昨日は「ビアレストランかまくら橋」で看護大学の五條先生とSCNの高本代表理事をゲストに6時からスタート。五條先生はお茶の水女子大出身で応用倫理を専攻しているということだった。終了してから竹下さんを誘って近くの「神田バー」へ。

4月某日
地方議員を対象にした「地方から考える社会保障フォーラム」の運営の手伝いをしている。第9回は4月20日、21日で開かれるが、社会福祉法人にんじんの会の石川はるえ理事長にも講演をお願いしている。事前の打ち合わせということで荻窪駅前の「源氏」へ、フォーラムを主催する社保研ティラーレの佐藤社長と伺う。打合せをすませたところで国際医療福祉大学教授で虎ノ門フォーラムの理事長、中村秀一さんが来る。「源氏」は石川さんが贔屓の店で、美味しい日本酒と肴が特徴。で、ちょいと呑み過ぎ。

社長の酒中日記 3月その3

3月某日
明日から3連休。何か読む本はないかと会社帰りに上野駅構内の本屋によると「僕たちのヒーローはみんな在日だった」(講談社+α文庫 朴一 16年3月)という文庫本が目に付いた。カバーにチャンピオンベルトをまとった力道山の写真が飾られ「力道山も松田勇作もあの国民的歌手も葛藤を胸にしながらこの国の真ん中で輝いた」というコピーが添えられている。中国大陸や朝鮮半島の出身者に対して日本人の多くが差別意識を持つようになったのはそんなに古くからのことではないと思う。恐らく明治時代の初めまでは仏教文化や儒教文化を日本に伝えた国としてそれなりに対等な関係にあったと思う。とくに大陸に関しては日本が朝貢外交をしていた「実績」がある。近代にいたって中国大陸や朝鮮半島を欧米列強が侵略、近代化を図ろうとした日本も欧米に負けじと大陸や半島に侵略を開始した。日清日露戦争、韓国併合、シベリア出兵、満州事変・日中戦争を通じて差別と偏見は助長されてきたのではないか。それはともかく本書によると、力道山は1940年に朝鮮半島から相撲取りになるために日本に渡ってきたシルム(朝鮮相撲)の選手であった。力道山は初土俵からわずか10場所で関取というスピード出世を記録するが1950年、突然、相撲界からの引退を決意する。米国でプロレスの武者修行を終え、帰国した力道山は1953年に日本プロレス協会を設立、プロレスブームを牽引する。力道山がやくざに刺された傷がもとで死ぬのが1963年だから「国民的英雄」として喝采を浴びていたのは10年間ほどだ。力道山は国民的な英雄となってからも望郷の念は止みがたかったが、出身に関しては口を閉ざしたままだった。国民的な英雄が朝鮮半島出身とは明かすわけにはいかなかったのである。ジャパニーズとコリアンは外見上、区別がつかない。出身を隠そうと思えば隠せるのだ。これが在日差別の問題を難しくしている一因かも知れない。私は「在日」の日本人であるが、自らのアイディンティティにこだわったことはほとんどない。「在日」日本人だからこだわりようがないのだが・・・・・。

3月某日
図書館から借りていた「パレード」(幻冬舎文庫 吉田修一)を読む。東京千歳烏山のマンションで共同生活を送る4人の若者の物語。5つの章から構成され、各章は4人の視点で語られる。第1章は21歳の大学生、良介によって、第2章は23歳無職の琴美により、第3章は24歳のイラストレータ兼雑貨屋店長の未来によって、第4章は18歳職業不詳のサトルの言葉で、第5章は28歳映画配給会社勤務の直輝の口から。最終章の半ばまで青春物語として読んできた。「そうそう、若いときっていろいろあるよな」という感じで。だが最終章でジョギング中の直樹が歩行中の女性を石の塊で殴打するところから画面は暗転する。直樹は最近、近所で発生していた通り魔事件の犯人だったのだ。上司、同僚にも好かれ、同居人にも頼りにされる直樹。その人はまた通り魔でもあるのだ。直樹の日常は“邪悪”なことどもを隠蔽したところに存在するのか?そうではなくて“邪悪”さも含めて直樹なのだ。人間は天使にも悪魔にもなりうる存在なのかもしれない。一人の人間の中に天使も悪魔も存在しているのかも。

3月某日
図書館から借りていた「資本主義という病」(東洋経済新報社 奥村宏 15年5月)を読む。奥村の著作は何冊か読んだことがある。「会社本位主義は崩れるか」「会社はどこへ行く」などである。私なりに「会社の役割」って何だろう?と考えたとき、奥村の著作を読んで非常に共感した覚えがある。奥村の問題意識は「はじめに」で明らかにされている。「問題は、なぜ資本主義が危機に陥ったのか、なぜ社会主義が行き詰ったのか」であり、それは「資本主義、社会主義のいずれも、それを支えていた大企業体制が行き詰って、危機に陥った」ためであるというのが奥村の主張である。これは「高度成長期には企業は分散することによって利潤を高めることができたが、低成長ないしマイナス成長下では企業は統合し間接部門や重複する事業の合理化を図るべき」という私の最近の考え方と一見、反するように見える。しかし奥村が問題にしているのはエンロンやリーマン、日本で言えば国有化ないし公的資金を投入された金融機関や東電などの大企業であり、私が念頭に置いているのは公的資金など注入されるべくもない中小零細企業である。それはさておき奥村が問題にしているのは市場の担い手が巨大株式会社になっているということであり、「巨大株式会社を解体したうえで、それに代わる新しい企業を作っていくことが21世紀の人類に与えられた課題」とも主張している。奥村の主張について論評する力量は今の私にはない。ないけれども1930年生まれで新聞記者、研究所員、大学教授を勤めながら会社研究を続けてきた老学徒には頭の下がる思いがする。

3月某日
図書館で小谷野敦の「母子寮前」(文藝春秋 10年12月)を借りる。小谷野は1962年茨城県生まれ。東大の英文科を出て比較文学の博士課程を修了しているから、世間的にはエリートであろう。私は以前「もてない男」「恋愛の昭和史」といった評論を読んだが、エリートの評論というイメージではなかったような気がする。「母子寮前」は私小説である。最近の私小説というと車谷長吉や西村賢太が思い浮かぶが、作風は両者とは全然違う。母が肺がんを患い、急性期病院に入院、ホスピスを経て死に至るまでを描いている。自身の仕事と結婚、父との葛藤も描かれる。私小説って自分を見つめるということでもあり、表現の過程では自分や家族、知人のプライバシーを暴くことでもある。これは「業」ですね。ちなみに「母子寮前」というのは母が入院したホスピスの最寄りのバス停の名前で、母が死んでから「その後、私は一人でバス停『母子寮前』まで行って、そのまま帰ってきた。いまでも母子寮があるわけではないだろうが、一度でいいから母と暮らしてみたかったと思った」と記されている。うーん、母恋私小説でもあるんだよな。

3月某日
フィスメックの引っ越しの打ち上げに参加。3連休を利用しての引っ越しだったそうだ。何も手伝わなかったがお寿司とビール、日本酒を戴く。田中会長と小出社長に誘われ近くの高級焼き鳥屋「福原」へ。後から社会保険出版社の高本社長が参加。4人で結構呑む。田中会長は80歳を過ぎている筈だがお元気だ。3人は一次会で切り上げたが田中会長はもう1軒行ったようだ。恐るべし80代。

3月某日
年住協の森理事とHCMの大橋社長と会社近くの「ビアレストランかまくら橋」へ。客は我々1組だけ。ハッピータイムというセットを頼むとオードブルと飲み物2杯が付くのでそれにする。オードブルがマトンだったので、最初は生ビール、2杯目は赤ワイン。それ以降はハイボールにする。ウイスキーはホワイトホースということだった。2軒目は「ビアレストランかまくら橋」から歩いて2分くらいの「神田バー」へ。気風のよさそうな女性店長の店だった。

3月某日
社会保険出版社の高本社長(奥さんはSCNの高本代表)の自宅は中央区新川のリバーサイドのマンション。去年からマンション2階の集会室で開かれる「春の園遊会」と称するパーティに招かれる。夫妻の人柄があらわれた気さくな良い集まりだ。ただ美味しいお酒が持ち寄られるので呑み過ぎるのが難点。今回も「獺祭」を呑み過ぎ。どうやって帰ったかよく覚えていません。

3月某日
上野駅公園口で年住協OBの林弘之さんと年住協現役の倉沢さんと6時に待ち合わせ。30分ほど早く着いたので上野駅構内のバー「HIGHBALL‘S」でハイボールを2杯ほど。上野公園で7分咲の桜を眺めた後、アメ横の番屋余市へ。

3月某日
元阪大教授の堤修三氏といつもの「ビアレストランかまくら橋」へ。4月から長崎県立大学の客員教授になるそうだ。堤さんは私と同じ年令だから今年68歳の筈。その歳で新しい仕事に就けるなんてうらやましい。後から当社の迫田が加わる。

3月某日
絲山秋子の「離陸」(文藝春秋 14年9月)を読む。国土交通省の東大出の土木系技官の「ぼく」が主人公。舞台は主人公の赴任する群馬県の矢木沢ダム、ユネスコへの出向にともない駐在するパリ、河川国道事務所長という肩書がついた熊本県八代、船会社に転職した博多と唐津だ。かつての恋人の失踪、恋人の遺児と育ての親、パリで出会った恋人との結婚と死、それに1930年代へタイムスリップするかのようなエピソードが重なる。複雑なストーリーを要約するのは、私の力量では困難なので省略するが、面白かった。

社長の酒中日記 3月その2

3月某日
家の近所に昨年、喫茶店がオープンした。店の前で古書を売っているのでときどき覗く。文庫本、新書は3冊200円だ。床屋の帰りに寄ると「烈士と呼ばれる男―森田必勝の物語」(文春文庫 中村彰彦 03年6月)が目についたので買うことにする。つい先週、岩波の「ひとびとの精神史」第5巻で鈴木邦夫の「三島由紀夫―魂を失った未来への反乱」を読んだばかりということもある。森田は私より2年早く早大に入学している。私が入学したのは68年で、5月くらいに何を名目にしたのか忘れたが、政経学部自治会でストライキを打った。ストライキ反対派が抗議に来たがそのとき先頭にいたのが森田だった。私は新入生でストライキの防衛隊の一人。自治会の前委員長のこれも森田さんという人が「まぁまぁ森田」となだめてその場は収まった。今から考えると政経学部バリケードの入り口という狭い空間に、偶然ではあるけれど私を含めて森田が3人いたわけで少し可笑しい。私はつい最近まで三島事件=反革命ととらえていた。確かに三島事件の前年、69年の10.21の3派全学連などによる新宿騒乱事件が三島に危機感を抱かせたことは間違いない。だが本書や鈴木邦夫によると三島や森田の考えは当時の体制とは、そして現在の体制とも全く相容れないものだった。つまり「反体制」である。これは主として我が国の防衛、アメリカとの関係をどうするかということなのだが、より根本的にはこの国の成り立ち、この国のありように関わってくると思う。たぶん自民党も民主党もこのことに気付いていないか気付かないふりをしている。三島事件は反革命ではなく反体制だったと思う。ただ僕らが目指した共産主義世界革命ではなく三島は、天皇を戴く「昭和維新」を思想としてではなく行動として表したかったのではないか。

3月某日
日曜日なので10時過ぎまで寝る。携帯を見ると川村学院女子大学の吉武副学長からの着信履歴。電話をすると「駅の北口で被災地の復興支援でコンサートがあるから行かないか?」という。迎えに来てくれるというので行くことにする。行くと我孫子市立布佐中学のブラスバンド部が演奏していた。これが結構上手い。次いで東京芸大の鈴木名誉教授が率いるトランペットのアンサンブル、我孫子在住の夫婦の声楽家によるアリア、我孫子駅前のマンション在住者によるデキシーランドジャズが続く。演奏はまだ続くのだが、寒いので6時からの打ち上げに参加することにして中座、私は近くのセントラルスポーツへ行って、プールで水中歩行。6時に打ち上げに参加、ジャズバンドでクラリネットを吹いていた人と話す。立教大学でジャズをやっていたということだが退職を期に再開したという。

3月某日
日本経済新聞の経済教室の「電機不振は何を映す(上)典型的な多角化企業の罠」(牛島辰男慶大教授)が面白かった。電機不振とは鴻海の傘下となったシャープ、不正会計問題に端を発して経営危機に陥った東芝、企業としては消失してしまった三洋電機などを指す。牛島教授は多角化企業の特質として「事業間に直接・間接の資金の流れが存在する」ことを上げている。こうしたことは敢えて多角化企業と言わずとも複数の事業展開をしている企業なら当たり前のことだと思う。教授は「この流れをうまくつくることで、企業は利益成長力を高く維持できる」としている。換言すると「市場シェアが高く競争力はあるが成長性に乏しい事業(金のなる木)の余剰資金を、高い成長が見込めるスター事業や、将来スターとなる可能性を秘めた事業(問題児)への投資へと回していくという流れである」。企業社会主義では、「成長性と競争力に乏しい『負け犬』事業に向かって『金のなる木』や資金の受け手であるべき『スター』の資金までが流れていく」構図となる。「負け犬」事業は早期に撤退を進め、投下されている資本や人材を成長力のある他部門へ回さなければならないにもかかわらずである。当社のような零細企業にもそれは当てはまる。ましてこのところの経営環境の変化の速さもある。「見極め」が肝心なのである。

3月某日
日本橋小舟町のSCNの事務所で高本代表理事と「介護職の看取り及びグリーフケアの在り方に関する調査研究」の報告書について打合せ。事務所から高本代表の夫の社会保険出版社の高本社長に「今晩、飲みに行きませんか?」と電話。「空いています」との返事で「葡萄舎」で待ち合わせ。現代社会保険の佐藤社長、フィスメックの小出社長も顔を出す。結構、いい機嫌になった。

3月某日
食材の宅配システムを開発し全国展開を目指しているワンマイルの堀田社長が主催する情報交換会に昨年から当社の迫田と参加している。ドローンを使って買い物困難者の支援ビジネスを展開しているMIKAWAYA21の鯉渕社長(若い女性)の話が面白かった。この会の幹事をやっている伊藤忠商事のロジスティクス事業部の渡辺課長が異動するため、この情報交換会もひとまず休止する。打ち上げを外苑前の「かに料理屋」でやった。

3月某日
今、ちょっとしたマイブームが三島由紀夫。関西出張の折、「肉体の学校」(ちくま文庫 16年2月第13刷)を買う。巻末に「この作品は1964年2月、集英社より刊行された」とあった。三島は確か1925年生まれだから、30代後半の作品である。服飾デザイナーの妙子は離婚経験者でなおかつ旧華族の家柄。ゲイバーでボーイをしていた美青年、千吉を恋人にする。三島の小説を読むのは何十年ぶりかだが、かつては感じなかったであろう文体の古風さに魅かれた。たとえばこんな一文。「妙子は寂しさと不安に耐えられなくなって、居間も食堂も寝室も、あるだけの灯りをみんなつけた。部屋部屋は花やいで、その中をうろうろと歩きまわるうちに、ふと妙子は、誰かが自分の背後を通り過ぎる影を感じて、ぞっとした。するとそれは、洋服箪笥の鏡の中をすぎる自分の影であった」。こういう小説から三島の復古主義的な思想を感じることはできない。爛熟する資本主義を経済的な基盤とする旧世代の退廃を感じるだけだが、しかし退廃の香りこそ文芸には似合うと思う。

社長の酒中日記 3月その1

3月某日
認知症で徘徊しているうちに列車にはねられ死亡した事故を巡って、IR東海が家族に損害賠償を求めた裁判の判決が出た。家族に賠償を求めた1、2審判決を覆し最高裁は妻と長男は監督義務者にあたらず賠償責任はないとしJR東海の敗訴が確定した。1審の名古屋地裁では「妻と長男は約720万円を支払え」、2審の名古屋高裁では「妻は360万円を支払え」だったから家族の側の逆転勝訴だった。判例も絶対的なものではなく社会の変化に対応すべきなのだと思う。すでに上野千鶴子は「ケアの社会学」(2011 太田出版)のなかで、民法学者の上野雅和を引用する形で「現行の民法のもとでは家族に(法的)介護義務はない」(P100 第4章ケアに根拠はあるか 6、家族に介護責任はあるか)と断じている。上野雅和によれば「民法が規定する義務は『生活扶助義務』という経済的義務だけであり、身辺介護義務は存在しない」という。今回の裁判で争われたのは「監督義務」であり「身辺介護義務」とは同一ではない。しかし「身辺介護義務」が存在しないのなら「監督義務」も存在しないと考えるのが妥当であろう。5人に1人が認知症になる社会が到来する。権力による強制によって家族が支えるのではなく、社会が全体として認知症患者や家族を支えるべきだろう。

3月某日
中学校の時、ブラスバンド部で一緒だった花田文江さんが石巻市で大震災に遭遇、津波に巻き込まれて行方不明になったという話は前に聞いていた。その花田さんの遺骨の一部が発見されたという。高校の同級生の品川君が何人かに声を掛けてくれて、ささやかに「偲ぶ会」を開いた。メンバーは男子が品川君、中沢君、阿部君、今井君、女子が中田さん、小原さん、みきちゃん。場所は銀座の銀波。北海道新聞に遺骨が発見されたという記事が掲載され、そのコピーを見せてもらった。

3月某日
当社の主力取引銀行は三菱東京UFJ銀行の神保町支社ということになっているが今まで幸か不幸か運転資金に困ったことがないのでお付き合いはほとんど無かった。去年ぐらいから松田君という小樽商大出身の若手行員が良く顔を出すようになり、当社の大山専務と応対することが多くなった。先月、松田君が本店に転勤となり槙得君という学生時代バレーボールをやっていたという長身の青年が担当となった。今日も何かの営業に来たようだが、時間の大半を世間話に費やした。まぁ私としては金融業の将来像というか「金貸し」が銀行の本業でいいのかということを問いたかったのだが、如何せん知識が無いので。東京介護福祉士会の白井幸久会長と健康生きがいづくり財団の大谷常務が来社。向かいのビルの地下1階の「跳人」へ。ここは肴がおいしい。刺身はもちろんだが今日は「めひかり」のから揚げ、フキノトウの天ぷらがおいしかった。大谷さんが神戸出張とのことで7時に切り上げる。私はHCMの大橋社長と西新橋のバー「カオス」へ。ここはHCMの平田会長が贔屓ということだが、落ち着いたいい店だ。「跳人」で日本酒、「カオス」でウィスキー。いつものことだが呑み過ぎである。

3月某日
愛知県半田市、大阪、淡路島、京都と4泊5日の出張。半田市では福祉住環境コーディネータの児玉さんと社会福祉士の古藤さんと面談、大阪はグループ経営会議に出席し、そのあと大阪介護支援員協会の福田次長に面談、淡路島は旧知のカメラマンの津田さんを洲本市に訪ね、町興しの現状を聞いた。京都では京大の阿曽沼理事にご馳走になり、近況を聞く。阿曽沼さんは厚労省の元次官だが関連団体や民間企業への天下りはせず、京大にも「請われて」行ったらしい。最近も八戸の農業高校と京大との協同研究を実現させるべく奔走しているとのこと。それはともかく阿曽沼さんにご馳走になったのは「京甲(かぶと)屋」という日本料理屋。阿曽沼さんも初めての店らしいが、経営者兼板長らしき人と雑談しているうちに、彼は北海道のなんと私と同じ室蘭出身と言うではないか。「高校はどこ?」と聞くと、これも私と同じ室蘭東高校。もっとも卒業年次は私より20年以上後だが。室蘭東高校は生徒数の減少から数年前に室蘭商業高校と統合、東翔高校となったことは風の便りに聞いていた。名刺を交換すると「京甲屋代表池田泰優」とあった。東高校卒業後、大阪の料理学校で学び、京都で修業したのち開業したということだ。東高校は私のころで1学年、普通科3クラス、商業科2クラスの小規模な学校で当然、卒業生も少ない。その卒業生と京都の料理屋さんで会うとは思ってもいなかった。まぁ縁ですね。

3月某日
西新橋のバー「カオス」にマフラーと帽子を忘れてきた。HCMに届けてくれたということなのでHCMに行く。HCMの大橋社長と新橋の「うおや一丁」という店で呑む。北海道から東京に進出した店らしいが安くて美味しい。5時半ころ店に入ったのだがすぐ満員になった。

3月某日
出張中に図書館で借りた「ひとびとの精神史第5巻、万博と沖縄返還1970年前後」を読む。「劇場化する社会」「沖縄―『戦後』のはじまり」「声を上げた人々」の3章構成。なかなか面白かったのだが、ここでは「劇場化する社会」の中から「三島由紀夫 ―魂を失った未来への反乱」を取り上げたい。執筆したのは新右翼で元一水会代表の鈴木邦夫。もちろんテーマは1970年11月25日の三島事件。この日、三島は自ら作った「盾の会」のメンバー4人を率いて市ヶ谷の自衛隊駐屯地に乗り込み憲法改正と自衛隊の決起を呼びかけ、盾の会の学生長だった森田必勝と割腹自殺した。私は早大の3年生で食堂のテレビの昼のニュースで、作家の三島由紀夫が自衛隊の東部方面総監を人質にとってたてこもっていることを知る。当時付き合っていた今の奥さんとバスで早稲田から市ヶ谷まで行ったことを覚えている。三島はバルコニーから自衛隊員に「アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであろう」と演説する。鈴木は確かに「アメリカの傭兵化」は進んでいるとして、現政権は「改憲して自衛隊を国軍とし、アメリカと一緒になって、どこへ行っても戦争をできるように」志向しているという。鈴木の思いは「同じく改憲を唱えた三島の考えとは全く反対ではないか」というところにある。鈴木は三島の「ぼくは吉田松陰の『汝は功業をなせ、我は忠義をなす』という言葉が好きなんだ」という発言をひいて、三島は敢えて「有効な道=功業」を捨て無効の「忠義」をやった。そのことで有効・無効を超えた大きな影響を与えられると思ったのではないかとしている。なるほどである。三島事件に対する今までの論評の中で最も納得できるもののように思う。