新・社長の酒中日記12月

12月某日
 「会社はこれからどうなるのか?」(岩井克人 2003年2月 平凡社)が家の本棚にあったので読むことにする。読んだ覚えはないし買ったことも覚えていないが、このところ岩井の資本主義論や株式会社論に共感を覚えているところなので読むことにする。バブル崩壊後の日本経済が長期的な低迷期に陥ったころに書かれたこの本は、私には少しも古く感じられず、むしろ新鮮だった。この本で指摘された日本の市場や株式会社の問題点がそのまま解決されずにいることも新鮮に感じた一因であろう。「ですます調」で語り口は平易だが、会社や法人の成り立ち、法人名目説と法人実在説などは今までほとんど関心もなく難解だったが、21世紀の会社の在り方を論じた8、9、10章はよく理解できた。

 岩井の論を私なりに要約すると次のようになる。第1次産業革命を経て19世紀後半から20世紀初頭にかけての第2次産業革命によって、米英だけでなく日独など遅れてきた資本主義国も重化学工業化に成功する。鉄鋼、化学、自動車、重電、家電などの業種によって産業資本主義が開花する。産業革命以降、資本家は土地を購入し工場を建設し、機械を据えれば後は農村からの過剰労働力を投下すれば利潤を手にすることが出来た。しかし20世紀の最後の10年あたりからのグローバル化、IT革命、金融革命の波は資本主義の性格を産業資本主義からポスト産業資本主義へと変えていく。

 岩井はポスト産業資本主義の時代を「差異性を意識的に創り出すことのみによって利潤を生み出していく資本主義の形態」と定義する。つまり企業にとっては「独自の差異性を確保していくよりほかには、生き残る道はなくなって」きたのだ。企業の生き残る能力が「コア・コンピタンス」(会社のコア(中核)をなす競争力)だ。ポスト産業資本主義の時代にこの能力を磨くには、ハードではなくソフトの競争力を高めるしかない。それを岩井は「個性的な企業文化を築くこと」と言っている。当社に当てはめるとさまざまな関係性やネットワーク(顧客、外注先、取材先等)こそがコア・コンピタンスのように思える。

12月某日
 月刊「介護保険情報」の校正をやっているWさんは今から40年前、私が日本木工新聞社に勤めていた頃の同僚だ。彼はそれから医学書の出版社に入り、そこの上司と出版社を興したりしたのだが、結局フリーの編集者兼校正者の道を歩むことになり今に至っている。そのWさんが貸してくれたのが「シャレのち曇り」(立川談四楼 2008年7月 ランダムハウス講談社)。病気療養中の当社のOさんに読ませようと病院に持っていたのだが、どうもまだ読んでいないことに気が付いて持って帰った。

 群馬県から上京して立川談志の弟子になり、師匠の落語協会からの独立と「立川流」の旗揚げ、真打昇進などを縦糸に、ソープランド(当時はトルコ風呂)での童貞喪失や「前座の恋の物語」の失恋、OLとの結婚、子育て、浮気など横糸に、落語家の真情を可笑しくも切なく描いたこれはなかなかの傑作である。著者自身の解説によると前座時代、談志に連れて行ってもらった銀座のバーで田辺茂一や吉行淳之介などの文人に紹介されたのが小説に目覚めた最初というが、文体やストーリーの展開にしてもとても落語家の余技とは思えない。

12月某日
 元社会保険庁の松本さん、鬼沢さん、池田さんとゴルフ。以前は毎月第2土曜日に例会をやっていたが昨年、多くの人が職を退いたためウィークデイの方が安いしすいていていいだろうということで第1火曜日に例会をすることにした。ゴルフ場はディアレイクカントリー倶楽部。快晴。ハーフを回ったところで私と鬼沢さんがリタイア宣言。私は脳卒中の後遺症で右手右足が不自由。鬼沢さんも大腿骨あたりの骨の具合が宜しくないというのが中途リタイアの理由。ゆっくり風呂に入って残り3人が戻ってくるのを待つ。私と鬼沢さん、池田さんの3人は新鹿沼から特急で帰る。帰りの電車ではいつも宴会。ワイン2本を空けたころ北千住に着く。

12月某日
 取引先のHCM社の平田会長にあいさつ。平田さんは天龍寺管長を勤められた平田精耕老師の実弟。精耕老師は確か東大で印度哲学を修めドイツにも留学したことのある学究肌の人だったが、平田会長は禅寺の出ながらミッション系の同志社を出て、学生時代はバンドをやっていたという変わり種。なかなか味のある人でこの日も「世の中には白黒つけたがる人がいるが、白黒なんかそんなつけられるもんやない。だいたいがグレーなんや」という実に味わい深い言葉を聞くことが出来た。HCM社の忘年会に参加。南部地鶏の店で大ぶりの砂肝が美味しかった。2次会のカラオケに移動中に結核予防会の竹下さんから電話。合流して会長と3人で新橋のT&Aへ。

12月某日
 埼玉県庁を退いた後、JR東日本に籍を置きながら上智大学の講師をやっている加藤ひとみさんの呼びかけで、上智大学の教え子中心に「我らが高原先生を偲び語らう夕べ」が東京国際フォーラムの「黒豚劇場ひびき」で開かれた。当社のIを連れて参加することにする。定刻に会場に着いたら「黒豚劇場」の入り口前の椅子に堤先生がぽつんと座っていた。先生は阪大を退職した後、定職に就かないものだから時間だけはたっぷりあるのだろう。ぽつぽつと教え子たちも集まりだして献杯。この店は埼玉の店ということで小江戸(川越)の地ビールなどを呑む。高原先生は福祉学科で教えていたのだが、卒業生は福祉関係に進んだ人は少ないようだ。

 でも彼ら彼女らの話の端々に高原先生が学生たちに慕われていたことがよく分かった。堤先生は高原さんのことを「異形、異色の厚生官僚」と表現していたが、「優秀な教育者」という形容も付け加えた方がいい。高原さんを上智大学に招へいした栃本一三郎先生も遅れて参加。でもびっくりしたのは学生さんたちの3分の2以上が女子学生だったこと。上智はもともと女子学生に人気があったがこれほどとは。まぁ華やかで宜しいが、高原先生も人生の最期で女性に囲まれていたわけだ。

12月某日
 浜矩子の「『通貨』はこれからどうなるのか」を読む。初版が2012年の5月だから現状のアベノミクス効果とはズレがある。というか浜は一貫して反アベノミクスだったからズレがあって当然なのだけれど。アベノミクスでは円安誘導が「3本の矢」の1つとして重要なカギを握っており、表面的にはそれが成功して現在は1年前と比べて30%程度の円安になっている。それに対して浜は「1ドル50円時代に向かう日米経済」と円高・ドル安を予想する。もっとも浜は単純に円高ドル安を予想するのではなく、基軸通貨としてのドルの役割が縮小し、それによってドルの価値が下がるという予想だ。私は経済の門外漢だが、どうもアベノミクスは危なっかしいと思っている。円安で輸入物価が上がり、政府が想定する2%を超えて物価が上昇したら、国債金利も上昇し価格は暴落する。国債金利が上昇すれば、ソブリンリスクを抱えてしまうことになる。しかも円安と原発の停止で原油の輸入量と輸入価格が上昇。それでいて円安にもかかわらず輸出量は増えていないという。それにしても通貨は面白い。信用とそれに裏打ちされた通貨価値。何やら信用とそれに裏打ちされた人間価値と言い換えられそうだ。

12月某日
 介護従事者自身によるwebマガジン「けあzine」立ち上げのために知り合いの介護関係者に投稿のお願いに回っている。今回は被災地石巻で訪問介護事業を行っているパンプキンの渡辺常務にお願いに行く。被災直後は厳しい表情だったが、今は柔和で自信に満ちた顔つきだ。投稿のことは「少し考えさせて」ということだったが、渡辺常務は介護保険だけに頼らず、有償ボランティアや無償ボランティアの組み合わせで地域の介護力を高めようとしているなどと語ってくれた。同じ石巻のキャンナスを訪れ、佐々木あかねさんに投稿をお願いする。

 仙台に宿泊。同行したIは仙台近郊出身なので実家に泊まることに。朝早く八戸へ。八戸から八戸学院大学に行くには、電車で鮫まで出てそこからタクシー。鮫行きの電車待ちが1時間以上あるので、八戸の中心地までバスで行くことにする。これが間違いの元。中心地に出るまで1時間以上もかかってしまい、電車に乗り遅れてしまう。本八戸駅構内の蕎麦屋で煎餅そばを食べる。きのこや野菜がたくさん入っていて580円。安いと思う。

 本八戸から鮫行きの電車に乗るとIが乗っていた。鮫駅からタクシーで八戸学院大学へ。篠崎准教授に投稿をお願いするためだ。待ち合わせより早く着いたので研究室の前で待つ。トイレに寄ったら篠崎先生がいた。先生は快諾してくれた上、何人かに声を掛けてくれると言ってくれた。先生は来年、千葉県の松戸市にある聖徳大学に移るそうだ。大学の先生も何かと大変なのだ。聖徳大学に来たら歓迎会をしましょうと約束。青森市へ。

 青森は20数年前、住宅協会の申し込みセット作って以来、何度か来たことがある。当時事務局長だった唐牛さんは青森で社会保険労務士事務所を開いている。当時事務員だった太田さんも呼んでくれて呑み会。唐牛さんのクライアントにも訪問介護事業者がいるというので投稿をお願いする。太田さんはなんと児童関係の社会福祉法人に勤めているので、こちらにもお願いする。当時の年金住宅融資は保証保険とセット。青森、岩手、山形など6協会の幹事を務めていたのが大正海上(現在の三井住友海上)で、担当が今、三井住友海上の会長をやっている江頭敏明さんだった。青春だったね。